以前、或る人から、
「そんな使い方をするのなら、ウチのブランドのタブレットを使って欲しくない、違うメーカのものにしろ」
という言われ方をした。
彼はその名を知らぬ者の無い超大手のメーカの人だから、
そのブランドのタブレットを使う事に物凄く誇りを持っていて、
酒の勢いも手伝って、そう言うのだろう。
私はそのブランドのタブレットの機能の秀逸さは理解しているし、
そのタブレットに誇りを持つ社員としての彼は、とても理解出来るし、好きだ。
けれど、県立高校の実習助手としての私は、
そのブランドのタブレットを使う事への誇りよりも、
各高校の生徒の学習レベルや基本的生活習慣、教諭の指導力やICT活用能力のバラツキ、
県のネットのコンプライアンスや予算、段階を追った将来的な進展なども鑑みて、その中で、
如何に最大限に、生徒に主体的能動的に、
思考のinput-outputの積み重ねの授業を展開する事が出来る機能が有るか、
を重要視しているので、
特定のメーカ名やブランド名には拘りが無く(公務員だから有ったら困る)、
彼がそう言うのなら、そういう販売戦略なら、と、単純に考える。
私の立場からすれば、理想や綺麗事を並べ立てているだけでは、戸惑い白けるだけだ。
誤解されると困るのだけれど、私は、 「ICT機器は、適材適所、臨機応変に、教具、文具、思考ツールとして、授業で使おう!」という立場。 私と同世代の人は、タブレットを、良くも悪くも「特別なモノ」として見る傾向が非常に強く、 時には、「カッコイイシステムを使って授業をしているオレ、カッコイイ!」とか 「(内容ではなく使っている事が)宣伝になる!」的な部分も見られたりするのだが、 若い人達は、これを、私の世代の鉛筆やノートと同程度な感覚で使っている感じがする。 だから、若い人達は、 タブレットの(素晴らしい)機能を、どの様に授業に活かすか、ではなく、 自分の授業の中で、どの様にタブレットの(素晴らしい)機能を最大限に活かすか、 を考えて授業を展開している。 頼もしく、嬉しい。
「(自分にとって)つまらないシステムで成果を出したくない」と公言する教諭も、普通に居たりする。
誰の為に授業をしているのだろう、と、素朴に、思う。
生徒の学びにとってそれはどうでも良い事だし、
他の教諭にとっても、所謂「つまらないシステム」で此処まで出来るのか!
これなら自分もアレンジして何か出来そう!と、刺激になると思うのだが。
実際、彼方此方のセミナーや研修会でも、
タブレットの部分と紙や鉛筆の部分を上手に切り分け、
システム自体は極くシンプルだけれど、
生徒の主体的能動的な学びと、思考のinput-outputの積み重ねの過程が良く練られている模擬授業が、
参加者にウケが良い印象が有る。
それでも何故彼はそうしたいのか。理由は3つ。
長くなるから此処では書かない。
この様な教諭が、ICTを活用した授業を混乱させているのだな。