最近の若い人は、自分の感覚からズレているもの、ことに対して、 頻繁に「ありえない」という言葉を使うらしいです。 昔の「信じらんな~い」に似ていますが、より排他的に断定している部分が違うと感じています。 しかも「自分の感覚」が基準なので、例えば二人がひとつの事に対して「ありえない」と言う時、 実は、お互いに違う意味で「ありえない」と言っている場合も多いらしいです。 本当は、その対象に対して相手は自分とは違う事を考えているかもしれない、 けれども、自分の考えている事を細かく言うよりも、 「ありえない」と一言言ってしまえば、面倒くさくないし、 その場は波風立たず、お互いに納得した雰囲気になり、丸く収まる、 そんな無意識が働いている様な気がします。(考え過ぎでしょうか?)
以前、
「”電話が鳴っているよ”という日本語の言い方が英語では通用しないから気を付けなさい」
という話を聞いた事が有ります。
英語文化圏では”電話が鳴っているよ”→”だからど~した”になってしまう、
だから”電話に出てよ”と言わないと判って貰えない、
という内容だったと記憶しています。
「それだけ日本語は曖昧なんだ」ということなのでしょうが、
この「曖昧さ」は、「発せられた言葉から相手の気持ちを読み取る」
気働きへと向かう「曖昧さ」だと思います。
けれども、冒頭の「ありえない」の「曖昧さ」は、
「発せられた言葉の中に自分の気持ちも相手の気持ちも閉じ込めてしまう」
非情な「曖昧さ」に思えます。
でも。
若い人に限らず、
最近の学校と地域との関係、学校と教諭との関係、教諭と生徒との関係には、
そんな「ありえない」的な感覚が多分に潜んでいる様な気がしています。
(2003/02/11記す)