キーワード辞典
私、私達・我々、民意

登録日 14/04/13   更新日 14/05/31


私、私達・我々、民意

例えば、 「ネットだから」「ネットでは無いから」という一括りな理由での 「偏っている」「偏っていない」という議論は、 最早、殆ど意味を成さない。

自由が保たれた(統制されていない)ネット全体としての情報は、決して偏って居る訳では無い。 それを偏っていると感じるのは、 無意識に自分の望む結論をヨノナカに求めているから。 或いは、自分の思いと違う事が大多数を占める事柄に対して、 多様性を訴え、殊更に偏っている事にしておきたいから。


所詮、ヨノナカは、真実も、嘘も、二枚舌達のダブルミーニングも、全てごちゃ混ぜだから、 それを判断するのは、自分でしかなく、 其処から、漠然とした「私達は」「我々は」や「民意は」ではなく、 「私達・我々」や「民意」を客観視した「私は」の意見として、発言をしなければならない。 一人一人の「私」の意見の集合体が「私達・我々」「民意」であり、 「私」をイメージの「私達・我々」や「民意」にすり替えてはならない。 事実は常に1つであり捏造は問題外だが、事実から導かれる答えは1つとは限らない。 この辺りの事は、今の高校生の方が余程実感している様に思える。

私の経験上、 自分の意見を主張する際の、 「私だけだろうか」「私だけでは無い筈だ」は、 私だけだろうが、そうで無かろうが、自分がそう思えばそう発言すれば良いので、 いちいち他人を持ち出す必要は無い。 漠然とした「私達・我々」に自分を隠し、「私達・我々」に酔いしれ、 「私達・我々」の代弁者気取りで、でも一人では責任を持ちたくない人達の常套句。 「配慮が足りない」も、結局は、 自分の満足や利権を守る為のすり替えや「弱者の代弁をしている俺カッコイイ?」的な slacktivistな雰囲気が強く、 根拠が事実なのか、その人達は本当に居るのか、 何人居るのか、ネタにされているその人達は実際にはどう思っているのか、 なんて事は、殆ど言及されない。 また、自分側に対する配慮は執拗に要求するが、 相手側に対する配慮は全く感じられない場合が殆ど。

私は、基本的に、自分の意見を安直にさも国民の総意の様に発言する人を全く信用しない。

事実を根拠にして論理的な筋道を通すことをせず、 抽象的、情緒的、レッテル張りな言葉を濫用する、 「ポエム化」した政治屋、評論屋、知識屋、が多過ぎる。


ヨノナカは、各人にとって、 信じたくない沢山の「事実」と信じたい沢山の「願望」とで満ち溢れている、という「事実」。
「白雪姫」に出て来る「魔法の鏡」と同じ。
では、自分の願望を、相手を否定することで事実にしようとする毒リンゴは、何でしょう?


仮に、極メロン派、メロン派、イチゴ派、極イチゴ派。多数派はメロン派、だとした時。
標本の対象は、偏っている?偏っていない?






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